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文章を書くということ・その3

2015.10.24(02:21) 588

えーっと

その1で「いい事にフォーカスして文章書こうぜ」って言って
その2で「気持ちにフィットする書きかたしようぜ」って言って

その3ではいきなり前文をひっくり返すような表現からはじまりますけども

書き起こした途端、その文章は〈気持ちそのもの〉からは乖離します



日焼けの皮が剥けるような、あるいはかさぶたがとれるような
そんな感覚だとわたしは捉えています。
自分の一部を気持ちから言葉に置き換えることで、言葉が独自の形を持って自分から離れるような気がするんです。
もちろんまだとっても近いものではあるけれど、もう「そのもの」ではなくなって、(それこそ薄皮一枚であっても)距離や差がある、別のものだなって思います。

服がどんなにフィットしていても自分の皮膚そのものではないように
自分の書いた文章がどんなにフィットしていても、それは自分の心から剥がれたものであり、言い方が本当によくないのですが“排泄されたもの”です。
書いたときと読み返す時の時間にズレがあって、どんなにちょっとでも「リアルタイム」にはなりえない。文章を出した瞬間の過去の自分ではないから。
まあ、だからこそ書いて留めておきたい、とも思うわけですが。



人の文章があまりにも自分の気持ちにフィットして、ぎょっとすることもありますよね。
自分を全く知らない人の書いたレディメイドの文章なのに、なんでこんなにわかってるの?と。
その人のあらわした文章が最大公約数的なものを含んでいて、たまたま自分がその公約数の中のひとりってことなんでしょうけど、とにかくサイズがあったってことです。それはもうピッタリと。
自分の書いたへたっぴーな文章よりももっとフィットすると「ちくしょー」ともなりますが、まあそれは別の話で(笑)。
違うからこそ心地よい、そんな文章のもたらす恍惚のほうにスポットでも当てましょうかね。



それでね
書くことには“手放し“という一面があるのだから、
あえて言葉にしない、書かなくていい。
そういうことだってあるよね…とも思います。
思いそのものだって変わります。変わるけれどもその変化ごと、ずーっと手放さないで持っていたい
そんな〈想い〉であるならば
あえて書かずにずっと自分の裡で抱きしめてあっためて
気持ちごと変化ごとずっと抱えて生きていく。

それでいいんじゃないかなって考えて、書かないのもまたよろしきかな…なのです。
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